FUGAZI

「ハードコアは好きだけど進化したい」

91年に初来日した時のインタヴューでイアン・マッケイ(vo。g)が口にした言葉だが、まさにFUGAZIを集約している。

MINOR THREATのフロントマンとしてUSハードコア・パンクを切り開いたイアンが、“ポスト・ハードコア”を実践すべく86年に立ち上げたバンドがFUGAZIである。拠点のワシントンDCのパンク・シーンは、音楽的に硬直化してライヴで暴力が絶えなかった時代を過ぎて暗中模索の中から再興していく転換期だったが、袋小路を突破すべく満を持した不変の4人でFUGAZIは動き出した。

デビュー・ライヴは87年の9月で、その翌年に出した7曲入りのデビュー・ミニ・アルバム『Fugazi』に始まり、2001年までコンスタントに作品をリリースしている。パンク・ロックやハードコア・パンクの“次”に進むべく、守りに入らずに攻めの姿勢でサウンドをアップデートし続け、常に挑戦的な“パンクの最新型”だった。

エモ・コアと呼ばれるジャンルの先駆とも言われるが、エモにしては“泣き”のメロディが削ぎ落とされていてプリミティヴだし、情緒に頼らずリズムに重きを置いたサウンドが特徴だ。レゲエやファンク、DCが発祥のゴーゴーなどの非白人系音楽のグルーヴも躍動していたが、もちろんロックである。STOOGESの深く幅広い音楽性(特にセカンドの『Fun House』)をパンク/ポスト・パンク/ハードコア以降のセンスでアップデートしたといっても過言ではなく、インテリジェンスに富みながらFUGAZIも肉体派だ。

ベトナム戦争の帰還兵の言葉“Fucked Up, Got Ambushed, Zipped In(into a body bag)”の頭文字を並べてバンド名にしたところに、混乱した状況を突き抜けるFUGAZIの強固な意志や政治との距離感が見て取れる。音楽性と共振して歌詞もストレートではない表現で気持ちをゆっくりと刺激する。

「MINOR THREATではできるだけ単刀直入なアプローチを取っていて、率直にしていれば間違って解釈されることは避けられるだろうと思っていたけど、あまりに直接的だったから内部に込められた理念に踏み込まれることなく人に都合のいいように引用された感があった。歌詞がある意味“ユニフォーム(制服)”のように扱われてしまったような。だからFUGAZIの歌詞は(ユニフォームではなく)布地素材として使ってもらい、聴く人には各自が自分たちなりの“洋服”を仕立ててほしいと思ったね」(イアン・マッケイ)

イアンは、アルコールやタバコ/ドラッグ、カジュアル・セックスに対する一個人の意思を歌っただけにもかかわらず、“ストレート・エッジという思想”として乱用されたMINOR THREAT時代の教訓をFUGAZIに活かした。でももちろんFUGAZI流の“ファック・オフ!”アティテュードにあふれた歌詞である。

とはいえFUGAZIの気持ちがダイレクトに伝わってくるのはやっぱりライヴだ。頭よりも肉体的な表現であり、初期のスタジオ盤でギターを弾いてないギー・ピチョット(vo、g)は、その頃の曲をライヴでやる時にヴォーカルを取らない部分では独特のボディ・パフォーマンスを披露していた。ライヴも日常と同じく他者を尊重しながら自由に楽しむ空間であり、時には観客に“ステージを開放”して上下関係や垣根を取っ払った。と同時にFUGAZIは大ケガにつながるステージ・ダイヴやモッシュなどの観客の“危険な行為”は積極的に禁じた。93年秋の2度目の日本ツアーの際の映像も『Instrumenrt』で使われているが、渋谷クアトロで行なわれた東京公演でアメリカ海兵隊員らしき巨漢の観客が暴れているのが目に入った時にも、イアンはライヴを中断してその男にやめさせたのである。

90年代に入ってからは大きな会場でのプレイも増えていったが、『Instrumenrt』で映し出されているように80年代は通常のライヴとは違った場でやることも多く、社会的/政治的なシチュエーションの場も目立つ。ストレートなメッセージ・ソングを歌ってなくても行動と姿勢でFUGAZIは示し続けた。

バンドが利益を得る構図は既成の音楽システムと変わりはないが、リスナーをただの“消費者”ではなく共有する人たちとして捉えている。大手のイベンター/プロモーターとは積極的に絡まず、熱烈なFUGAZIファンで仕事の実績があっても大手ゆえに日本ツアーの業務を断られた話も聞く。レコード/CDの値段もチケット代も極力抑え、知名度が上がった90年代半ば以降でもその姿勢は変わらなかった。ライヴ開場でのグッズの販売もしない。いわゆるミュージック・ヴィデオの制作も無し。いわばオールド・スクールな方法論でレコードやCDなどでの音源制作/リリースとライヴ・パフォーマンスという、自分たちがコントロールと実感ができる地道なやり方で着実にファンを増やしていった。

要は何事も贅肉を削ぎ落し、自分自身の流儀で好きに実践することである。FUGAZIで初めて本格的にギターを手にしたがゆえに発想がユニークなイアンが、エフェクターを使わずに手の動きを工夫してギブソンSGから刺激的な音を放っていたのもその一環である。ストイックで自由、そして柔軟な発想と強靭な表現が肝だ。反資本主義!などのナイーヴなスローガンを歌ったりはせず、さりげない“手作業”がFUGAZI流。そうやってFUGAZIは“ロックンロール”を更新して80年代後半以降の“rebel music”になった。

精力的なライヴ活動も相まってFUGAZIはアンダーグラウンドからじわじわと広がり、90年代に入るとオーヴァーグラウンドにも浸透していった。一筋縄ではいかない刺激的なスタイルながらリズミカルで親しみやすく、柔軟なパンク・スピリットと安易に妥協しないハードコア・マインドを内包したロック・サウンドだけでなく、アーティスティックでインディペンデントな姿勢も敬愛されている。

FUGAZIのホームグラウンドは、イアンも主宰者で1980年にスタートしたリアル・インディペンデント・レーベルのディスコード・レコードだ。仲間と協力しながら自分のことは自分でやる徹底したDIYの方法論を貫き、様々な意味で直接行動を起こしてきた。時代が多少ズレるとはいえそういう点で同志とも言うべき、英国の“アクティヴィスト”政治的パンク・グループのCRASS周辺との関係も興味深い。実質的な2作目の88年のミニ・アルバム『Margin Walker』を、CRASSのほとんどのレコーディングと同じく“サザン・スタジオでの録音+ジョン・ロダーのエンジニア”という体制で作ったのも必然である。

オルタナティヴ・ロックのフィールドでもFUGAZIはリスペクトされ、影響力が大きいだけに交流範囲も幅広い。メジャー・レーベルからの誘いを相手にしないとはいえ、基本的にオープン・マインドだからメジャー・レーベルでやってきている人を否定もしない。

イアンはSONIC YOUTHの『Dirty』(92年)収録曲の「Youth Against Fascism」にゲスト・ギタリストで参加している。RED HOT CHILI PEPPERS在籍時のジョン・フルシアンテや、彼の後釜でRED HOT CHILI PEPPERSのギタリストになったジョシュ・クリングホッファーと、ジョー・ラリー(b)がATAXIAを結成して2作品出したことも見逃せない。

そんなFUGAZIも2002年に活動停止。「メンバー個々の生活や家族問題などの状況で、(コンスタントなリリースやツアーをする)活動を続けられなくなり、それならばバンドとして続けていくこと自体も意味がない」と話すイアンは、バンドの状態を“hiatus(すき間、割れ目、ひび)”と表現する。『End Hits』(1998年)〜『The Argument』(2001年)でメロウな“進化”も見せていたFUGAZIだが、『Instrument』はその直前のピークまで高まっていく張りつめた時期のドキュメンタリーだ。

行川 和彦(音楽評論家)

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