ザ・フーの歴史は、ロジャー・ダルトリー(Vo、当時はG)のバンド、ディトゥアーズ(Detours)に、同じ学校出身で顔見知りだったジョン・エントウィッスル(B)が加入した1962年に溯る。ジョンはすぐに学生時代のバンド、コンフェデレイツの仲間だったピート・タウンゼント(G)を誘い、しばらく一緒に活動を続けた64年春、新しいドラマーにビーチコマーズのキース・ムーン(D)が参加したことでお馴染みの4人が揃うことになる。
実はその頃、ピートの友人の提案でバンド名を一度ザ・フーに改名したものの、フォンタナ・レコードからのデビューに際し、パブリシストでモッズ族の顔役でもあったピーター・ミーデンの提案によってバンド名をハイナンバーズに改め、64年7月、モッズ讃歌のデビュー・シングル「I’m The Face/Zoot Suit」をリリース。残念ながらこのシングルは不発に終わったものの、ライヴを観てバンドの可能性を見出したクリス・スタンプとキット・ランバートの二人が、より良い条件を提示してマネージメント権を獲得。これを機にバンド名をザ・フーに戻すと、11月から16週間に亘り”MAXIMUM R&B”のポスターで有名なマーキー・クラブでのレギュラー出演も決定。ピートとキースが毎回のように楽器を破壊する過激なライヴが評判となり、65年に入ってからはシングル・ヒットを連発するなど注目バンドの仲間入りを果たすことになる。
中でも当時のイギリスの若者の心情を代弁したような3枚目のシングル「My Generation」の全英チャート2位の大ヒットと同名アルバムの成功により一躍トップ・グループとなった彼らは、ブリティッシュ・インヴェイジョンの波に乗ってアメリカにも進出。音楽的にもモッズ/R&Bバンドからフラワー・ムーヴメント〜サイケデリック・ロックの影響を受けたサウンドへと変化していく中で『Quick One』(66年)『The Who Sell Out』(67年)をリリース。更にライヴごとに楽器を破壊するパフォーマンスがエスカレートしてPAの音量も大きくなっていく中、ライヴでは必然的にハード・ロック・バンドへと変貌していくことで人気を高めていった。その一方、『Quick One』で試みたロック・オペラのアイデアを追究して生まれた傑作『Tommy』(69年)によって欧米で揺るぎない評価を確立したザ・フーは、次なる大作『Lifehouse』の制作に取り掛かる。しかしピートが考えていたコンセプトや全体のプロット、舞台や映画化も含むプロジェクトの全体像があまりに壮大すぎたため未完に終わり、用意していた曲をアルバム一枚にまとめて発表したのが、ザ・フーの最高傑作の誉れ高い『Who’s Next』(71年)で、初の全英チャート1位(全米4位)を獲得する。
この時期、世界一のライヴ・ロックンロール・バンドと称された圧倒的なパフォーマンスで、レッド・ツェッペリンと人気を2分するほど動員力を誇ったザ・フーだが、多忙なツアーの合間を縫って制作したのがピートによる『Lifehouse』のリベンジ作とも呼べる『Quadrophenia(四重人格)』(73年)だった。このアルバムも『Tommy』同様、79年に映画化(邦題『さらば青春の光』)され、モッズのバイブル的作品となるが、その裏で破天荒な生活を送っていたキース・ムーンが肉体的にも精神的にもパランスを崩すようになり、コンサートのキャンセルや日常生活でも奇行が目立つようになっていったのが73年頃からのことだった。
それでもザ・フーは何かに追われるように『The Who By Numbers』(75年)、『Who Are You』(78年)とオリジナル・アルバムをリリースするも、78年9月7日、キース・ムーンがアルコール依存症治療薬の大量摂取により急逝。ザ・フーとしての最後のライヴはこの年の5月25日、キースの死が近いことを察していたようなタイミングで制作されたザ・フーのドキュメンタリー映画『The Kids Are Alright』のため、英シェパートン・スタジオにファンを集めて行われたライヴが、オリジナル・メンバーによる最後のライヴとなってしまった。
キースを失ったザ・フーは、翌79年、元ライバルのモッズ・バンドだったスモール・フェイセス〜フェイセスのケニー・ジョーンズ(D)を迎えた新体制で活動を続行。翌81年に『Face Dances』、82年に『It’s Hard』とアルバムを発表しツアーも行なったものの往年の輝きを取り戻すことが出来ず、解散ツアーを行なった後、84年に正式に解散を発表。その後、85年7月のライヴ・エイド、88年のBPIアワード受賞時の再結成ライヴを経て、89年には結成25周年記念のツアーも行なっている。
その後、90年にロックの殿堂入りを果たした96年、ロンドンのハイドパークで開催されたチャールズ皇太子主催のプリンス・トラスト・コンサートで披露した初の『Quadrophenia』全曲ライヴ演奏を契機に本格的なツアー活動を再開。この時からリンゴ・スターの息子、ザック・スターキー(D)がメンバーとなり、その後99年〜2000年に北米、全英ツアーを始め、11月にはロジャーが支援しているティーンエイジ・キャンサー・トラストの為のチャリティー・コンサートでザ・フーを敬愛するポール・ウェラーやノエル・ギャラガー等とも共演。01年にグラミー賞特別功労賞を受賞し、10月には”9.11”被害者のための『The Concert for New York City』に出演するなど精力的に活動を続けるも、翌02年6月27日、北米ツアー開始前日に公演予定地のラスヴェガスで、ジョン・エントウィッスルが薬物摂取に起因する心臓発作で急死。ザ・フーは急遽、後任にピノ・パラディーノ(B)を迎え、7月1日からそのままツアーを続行して危機を乗り越えた。
そして04年6月、復活版ワイト島フェスに出演後の7月、東京と大阪で開催された『The Rock Odyssey 2004』への出演で初来日が実現。06年にもワールド・ツアーを行なった後の11月、24年ぶりとなるスタジオ録音アルバム『Endless Wire』をリリース。08年11月には単独の来日公演としては初となる2度目の来日が実現した。その後も10年に第44回スーパーボウルのハーフタイム・ショーや、12年のロンドン・オリンピックの開会式でも演奏するなど大物バンドとして存在感を発揮。そして今年(16年)も2月27日から5月末まで計28本の北米ツアー、6月はワイト島フェスへの出演とスペイン公演が予定されているものの、一部では今年のツアーが最後になるのではないかと噂されている。
そんな稀代のロック・バンド、ザ・フーの魅力を知る上でお勧めしたいのが、このプロフィールでも紹介したアルバムと映像作品の他、歴史を知る上では『Amazing Journey:The Story of the Who』も見逃せない。また全盛期のライヴ・バンドとしての凄さの一端を知る上で、『Monterey Pop Festival』、『Woodstock』、『Live at the Isle of Wight Festival 1970』、『Rock & Roll Circus』も観て欲しい。
保科好宏(音楽評論家)