「ファンク」を語るときにジェームス・ブラウンと並んで忘れられないのが、スライ・ストーンだ。彼はまた、ブラック・ミュージックの歴史の中で、人種間の壁を取り除いた革新的アーティストでもある。
1960年代後期にサンフランシスコ・ベイ・エリアから登場したファンク創始者のひとり、スライ・ストーンは本名シルヴェスター・スチュワート。1943年3月15日、テキサス州デントンに5人兄弟の2番目として生まれた。両親が信心深かったため子供たちは教会でゴスペル音楽に触れた。シルヴェスター誕生後まもなく一家はサンフランシスコ・ベイ・エリアへ移住。
長女(第一子)ロレッタ(1934年生まれ)以外の4人、長男(第二子)シルヴェスター(1943年生まれ)、ローズ(1945年生まれ)、フレディー(1947年生まれ)、ヴァエッタ(1950年生まれ)は音楽の道に。
この4人は「ザ・スチュワート・フォー」と名乗り78回転のシングル盤「オン・ザ・バトルフィールド」を1952年に出している。
シルヴェスターらは音楽活動を続け、地元のバンドに参加。そのうちのヴィスケインズというグループは、いわゆる当時流行りの「ドゥー・ワップ」を歌い7インチ・シングルを出した。
ハイスクール時代にクラスメートが、シルヴェスターのスペル Sylvester をSlyvesterと間違えたことから、この頭の3文字、Sly(スライ)と呼ばれるようになり、以降このニックネームが定着する。
1960年代中期からはいわゆる「フラワー・ムーヴメント」「ヒッピー・ムーヴメント」がサンフランシスコを中心に大きな流行、現象となり、同時に様々なドラッグが全米に蔓延した。「Stone」は酒や麻薬などでハイになることを意味したが、ドラッグ好きのスライは、自ら「スライ・ストーン」と名乗るようになり、自らのグループ名を「ファミリー・ストーン」とした。この名前こそ、そのフラワー・ムーヴメントの落とし子的存在となった。
1960年代中期、スライは地元のインディ・レーベル、「オータム・レコード」で今で言うところのA&R、プロデューサー的な仕事をして、レコード制作にかかわるようになる。てがけた作品の中ではボビー・フリーマンの「カモン・アンド・スゥイム」が全米トップ10入りする大ヒットとなり、注目される。
そして、ほぼ同じころ、1964年から1967年頃まで、スライは地元のラジオ局「KSOL」局でラジオDJとして活動。毎日夜7時から12時まで生放送を担当していた。彼は、DJをエンタテインメントにして、当時のソウル・ミュージック専門局にしては珍しく、ソウル・ヒットだけでなく、スライ本人が気に入ったロック物(ビートルズやローリング・ストーンズなど)もかけていた。
スライ・ストーンは、音楽活動をさらに活発化。1967年、スライ&ファミリー・ストーンはCBSレコードと契約。同年10月アルバム『ア・ホール・ニュー・シング』で大々的にデビュー。さらに1968年、2作目『ダンス・トゥ・ザ・ミュージック』、『ライフ』、1969年『スタンド』、1971年『ゼアリズ・ア・ライオット・ゴーイン・オン(邦題、暴動)』と立て続けに問題作をリリース。
シングルでは「ダンス・トゥ・ザ・ミュージック」(1968年1月)、「エヴリデイ・ピープル」(1968年12月)、「サンキュー」(1970年1月)、「ファミリー・アフェア」(1971年11月)と大ヒットを生み出した。音楽的にはロックと融合した独特のファンク・サウンドを確立し、1970年代初期までに確固たる地位を築いた。
1969年8月、スライ&ザ・ファミリー・ストーンは、伝説となった音楽フェスティヴァル「ウッドストック」に登場。2日目(8月16日)深夜の深い時間帯だったが、その場に残った観客からはよいリアクションを得たようだ。ちなみに、最近明かされたギャラ一覧などによると、出演約30アーティストで8番目のギャラ、約7000ドル(当時のレートで約252万円)を得ていた。ほぼ新人アーティストとしては破格のギャラだったといえるかもしれない。
しかし、その後、1969年秋、彼らが本拠をサンフランシスコからロスアンジェルスに移すと、彼らのドラッグ禍が激しくなり、通常の生活を維持することが難しくなった。レコーディングもままならず、アルバム制作も滞りがちになる。またライヴ・コンサートにも穴をあけるなどして、ライヴを仕切るプロモーターからも敬遠されるようになる。
結局1975年に「アイ・ゲット・ハイ・オン・ユー」のソウル・チャート・トップ10入りソングを最後に、トップ10入りするヒットは生まれず、スライの存在感は徐々に薄れていった。
音楽的な面で言えば、特にリズム・ボックスを多用したサウンドはその後のソウル、ブラック・ミュージックだけでなくロック音楽全般にも影響を与え、さらに、ファミリー・ストーンのベース奏者だったラリー・グラハムのいわゆる「スラップ・ベース」(チョッパー・ベース)という叩くような奏法は、その後のベース奏法に多大な影響を与え、多くのフォロワーを生み出した。
しかし、1980年代は行動や行方がよく知られず、スライ・ストーンは音楽業界内で伝説化。そんな中1986年、プリンス・ファミリーのジェシー・ジョンソンがスライ・ストーンとの共作曲「クレイジー」を発表。久々のヒットとなったが、この後も続かず、また長い沈黙を守ることになった。
1993年、ロック殿堂の授賞式に登場、観客席を大いに沸かせたが、その後は2006年2月のグラミー賞授賞式に姿を現し、大喝采を浴びるまで再び沈黙。しかし、グラミーの登場によって存在感がアピールできたためか、2007年夏にヨーロッパ・ツアー、その流れで2008年8月末、初来日、東京ジャズ、ブルーノート東京でのライヴが実現した。さらに2010年1月にはルーファスのトニー・メイデンとともに再び来日、ブルーノート東京でライヴを繰り広げた。
2011年8月、およそ29年ぶりのスタジオ録音アルバム『アイム・バック! ファミリー&フレンズ』をリリース。
また、2010年1月に元マネージャーであるジェリー・ゴールドステインに対して契約金問題で5000万ドル(約60億円)の損害を求めていたが、2015年1月、500万ドル(約6億円)で勝訴した。
一時期はホームレスになったとも伝えられていたスライ・ストーンだが、創作意欲は衰えることなく、「あなたの最高傑作は?」の問いに、「(まだできていない)次作だ」と答えている。